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紺碧の将

平安時代の貴族の別荘を訪ねる

2020.03.31

 平等院と聞けば10円玉と連想してしまう私は、まごうかたなき庶民である。まして芋づる式に「泣くな! 十円」というマンガまで連想してしまうにおいてをや。

 

 これまでに平等院を訪れたことがなかったのは、なぜなのか。おそらく、藤原道長に抵抗があったからだろう。だって「この世をばわが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」(この世は自分のためにあるようなものだ。あたかも望月=満月のように足りないものはない)と詠んだ人である。人はここまで勘違いできる、ダサい人間になれるという見本のような人だ。まさに日本版ルイ14世。日本人でこういうタイプは珍しい。ま、それだけ藤原氏の権勢が凄まじかったということか。

 あるいは、2013年11月にサントリー美術館で開催された「天上の舞 飛天の美」展でじゅうぶん見たという気になっていたことも影響しているかもしれない。雲に乗り、楽器を奏でる多くの菩薩像は、私の心を踊らせてくれた(現在、それらは平等院の鳳翔館に展示されている)。

 

 もともと仏教は、現世での救済を求めるものだった。しかし、平等院が創建された平安時代後期になると、末法思想が蔓延した。末法思想とは、釈迦の入滅から2000年目以降は仏法が廃れ、世の中が荒廃するという考えである。

 それを裏付けるように天災やさまざまな災いが続いたため、人々の不安は深まり、終末論的思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるためにか、仏教は現世での救済から来世での救済に変わっていった。平等院が創建された永承7(1052)年はまさに「末法」に当たり、貴族たちは極楽往生を願い、盛んに阿弥陀如来を本尊とする仏堂を造営した。

 しかし、当時、貴族たちによって建立された大伽藍のほとんどは現存せず、建物・仏像・壁画・庭園まで含めて残存するのは平等院のみだという。ただ南北朝時代、平等院も鳳凰堂以外、楠木正成と足利尊氏の戦いによってどれも消失した。

 宇治は『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘がある土地だった。現在の平等院の地は、光源氏のモデルともいわれる源融が造営した別荘が宇多天皇に渡り、その孫である源重信を経て藤原道長の別荘となったもの。道長が没したあと、子の関白藤原頼通が宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山は三筆のひとり、小野道風の孫にあたる明尊である。

 道長に対する好悪の感情はともかく、平安時代、貴族たちはこんな別荘を造っていたのだなと理解できるうえでも一見の価値はある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは屋根の上の鳳凰

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇治橋から宇治川を見る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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