コロナから最も遠い場所
本題に入る前に。
最近、幸福の科学が出稿している新聞広告を目にし、共感を覚えている。
とは言っても、宗教的な教義に、ではない。私は宗教的感覚は持ち合わせていると思っているし、どの宗教であろうが帰依している人を否定はしない。しかし、自分が特定の宗教に帰依することはない。仏教もキリスト教も〝雑学〟としてかじった程度だが、釈尊やキリストの思いとはずいぶん変わってしまっているのではないかと思っている。まして新興宗教は集金マシーンとしてしかとらえていない。それでも、幸福の科学の主張していることには共感を覚える。もしかすると、幸福の科学は宗教団体ではなく社会活動団体ではないのかと思うこともしばしばだ。
どういう主張かといえば、「『文春』の報道倫理を問う」「嘘を吹聴し、人びとを傷つける週刊誌は許されない」「新型コロナウイルスで国家的な嘘を繰り返す中国」など……。いずれも同感である。
「文春」に対する批判は直截だ。「君たちは恥ずかしくないのか」とまで書いている。実際、私も「そこそこ学業はできた連中がやっているのだろうけど、よくも恥ずかしくないな」と思っていたからだ。ただし、これは「文春」に限ったことではなく、「現代」も「ポスト」も同じ穴の狢だ。幸福の科学が名指しで「文春」を批判するのは(おそらく)自分たちがターゲットになったからだろう。
時には新聞が暴けない巨悪に切り込むことがあるから、週刊誌のすべてが悪いとは言えないが、99%以上の記事は嘘かどうでもいいことばかり。他人を(特に有名人を)を貶めることしか頭にない。自分たちだけ正義の味方ヅラしている姿を見て、おぞましいと思わない人がいるだろうか。そう思いつつ、買って読んでしまう人がいるから出版社のドル箱になっているのだろうが、所詮どっちもどっち、勝手にやってくれと落ち着く。
前置きが長くなった。本題である。
中国ウイルスの感染拡大にともない、人に会う機会が極端に減った。密集地に行くこともない。それにともない、自宅でできる40種類くらいの運動をこまめにしているが、やはり歩かないとダメだ。身体の弱体化は膝や足腰からくる。サプリメントで補えるものではない。
先月の3連休のあとから新宿御苑が閉園となってしまったため、代わりに向かう先が神宮外苑と明治神宮である。
特に明治神宮には心身ともに救われている。深い森のなかには清浄な空気が行き渡り、なんらかのエネルギーが渦巻いているのを感じる。通常より人の出は多いが、お喋りをしながら歩いている人がほとんどいない。神域の独特の空気がそうさせるのだろう。ここならウイルス感染はないだろう。
このような森を100年以上前の先人たちがつくってくれた。まさしく「子孫への贈り物」である。なぜなら彼らは、自分たちが生きている間にその恩恵を受けることはなかったからだ。それを知って、私財と労力を惜しみなく注いでくれた。そういうこともあの森を歩きながら思い、感謝の念をおくる。
では、われわれ現代人は、何代も先の子孫にどのような贈り物ができるのだろうか。この状況下、自分のことだけで逼迫してしまうのはわからないでもないが、長いスパンでものごとをとらえていくと、目の前の危機が少し薄らいでくる。危機に直面し、自らの思考法を制御できるかどうかはきわめて重要なことだと思っている。
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(200412 第984回)