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紺碧の将

遠近法という洗脳

2020.05.10

 

 遠くにある物は小さく描く。遠近法に慣れている身にとって、それは当たり前のことだ。しかし、それが〝心のまま〟かどうかとなると、アヤシイものだ。江戸時代の初期、雁皮紙の表裏に具引きを施し、俵屋宗達派の画家が下絵を描いた料紙に本阿弥光悦が『千歳和歌集』のなかから草花を題材にした歌を散らし書きした数枚の作品を見て、そう思った。

 上の『四季草花下絵和歌巻』の1枚を見てほしい。ススキや萩など秋の草の間に、でっかい半月が浮かんでいる。いや浮かんでいるというより、すぐ目の目にある。思わず「こんにちは」と言いたくなるほどの接近ぶり。しかし、はじめは秋草と書に目がいき、半月形のシルエットは目に飛び込んでこなかった。あまりに大きすぎるゆえ、脳内の盲点を突かれたようだ。

 しかし、これが月だとわかったとき、思わず「へぇ〜」と嘆息をもらしてしまった。江戸に生きた人たちの感性が羨ましくもあった。なぜなら、遠近法という常識に縛られていない。月は夜空に浮かんでいるものという固定概念がない。月が好きだから大きく描いた、そういう素直な心が表れている。

 こういう心持ちを〝自由〟というのだろう。常識に縛られた感性では、自由の境地は得られない。おそらく、無邪気な子供ならなんの疑いもなく受け入れるにちがいない。

 光悦の書もいい。墨の濃淡、線の肥痩を使い分けながら、自在に書いている。宗達と光悦のコラボはあまりに調和がとれているためか、二人は「デキていた」と言われるが、そんなことはどうでもいい。

 天才と天才のコラボ、それを後世のわれわれは見放題だ。なんとも贅沢なことである。

 

左久良咲、日ら濃

山可勢、吹まゝ尓、

ハ那尓、成行、

志可濃うら

な見

知利懸、ハな

能錦盤、

きた連ども、

帰無事

曽、わ須ら礼尓介流

(さくらさくひらのやまかぜふくままに はなになりゆくしがのうらなみ)

(ちりかかるはなのにしきはきたれども かえらむことぞわすられにける)

 

 現代人には読むだけでひと苦労。最近、古い書を読む訓練をしているが、フランス語の方がずっと簡単だと思う(筆者はフランス語を始めてする断念した経緯がある)。こういう歌をさらっと詠み、さらさらと書き散らしている光景を思い浮かべると、祖先に対する深い憧憬の念が湧いてくる。

 

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(200510 第991回)

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