おせっかいな社会
とにかく日本の社会は病的なほどおせっかいな社会だ。まさしくビョーキといっていい。どこへ行ってもおせっかいなアナウンスとおせっかいなサインで溢れている。
気が休まらない。電車に乗れば、やれ白線の内側に下がってほしい、列車が通過するので注意してほしい……、電車に乗れば、やれどこどこには何時何分に到着する、グリーン券は車外で買うのと車内で買う場合と値段が異なる……、コンサート会場へ行けば、やれどの線に何列で並んでほしい…。
また、街を歩けば、店頭で拡声器をもってがなりたてるお兄さんがたくさんいるが、思わず猛ダッシュして顔面に何かをお見舞いしたくなってしまう。
同じように、都会の真ん中から地方のあぜ道に至るまで看板や標識の氾濫で、まともに見ていたら気が狂いそうになる。
例えば右上の写真。ミラノのなにげない小径だが、道路標識が2枚あるのみ(しかも石柱に掛けるタイプ)で、あとは何もない。こういう風景が、人の営みとして当たり前なのではないだろうか。
ヨーロッパに限らず、アメリカでもアジアでも電車のアナウンスは最小限(時にはまったく無言)なので、着いた駅がどこなのかわからなくなることがある。車で走っていても、交差点での標識はほとんどない。でも、言うまでもないことだが、目的の場所へ行くためには「自分で調べなさい」ということである。
日本はいつのまにか騒音+雑音×ゴチャゴチャな風景というのが当たり前になってしまった。そういうことが日本人の感性に及ぼす影響は計り知れないと思う。
もちろん、ここまで「おせっかい国家」にしてしまった原因は、国民ひとりひとりである。何か事があるたびに行政や企業にクレームをつけるため、世の中が「責任逃れの予防措置」だらけになってしまった。
それにしても、上の写真。足下から帽子まで黒ずくめに深紅のショールを巻いた年輩のご婦人が石畳の曲がりくねった道を颯爽と歩く姿は、なんとも絵になるではないか(小さくて見づらいね)。
以前、アルファロメオのパトカーに乗っていた若い警官が車に出てくるや、窓ガラスを鏡がわりにして髪型を整えているのを見たことがあるが、「まったくイタリア人てやつは!」とあきれ果てたものの、それもつかの間、美しい風景の中に身を置いていれば、おのずと自分の風貌にも関心がいくはずと妙に得心がいった。
(110307 第234回)