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紺碧の将

雅とは

2020.11.17

 最近、雅(みやび)とはどういうことかと考えさせられている。2つ、ヒントがあった。

 ひとつは辻邦生氏の『西行花伝』のなかで、若き西行(佐藤義清)に歌の師である源重実が語る場面。

「流鏑馬(やぶさめ)で大事なのは、的を射抜くということと同時に、雅であるということ。どちらが大事かと言えば、的に当たることより、むしろ雅であるということだろう。なぜなら、雅であるとは、この世の花を楽しむ心だからだ」

 それを聞いた西行の心に「?」と「!」が灯った。すかさず重実に尋ねる。的に当たることより雅であることが大切であり、雅であることがこの世の花を楽しむ心というのはどのような理(ことわり)なのかと。重実はこう答える。

「目的を達することだけに心を砕く人は満足することがない。満足とは留まることだ。自分の居場所に気づくことだ。この世を楽しむには、まず留まることが必要だ。的に矢を当てることだけを考える人は目的を追う人だ。雅な人は、当たらなくても嬉しい。矢を射ることそのものが楽しいからだ」

 

 思わず膝を打った。このような事例は、世の中にごまんとある。目的ばかりに意識を奪われた結果、無間地獄に陥ってしまったケースを。仕事の本質を見失い、結果(数字)だけを追う人はその典型だ。数字は青天井であり、どんなにいい数字をあげてもさらにその上がある。そのことだけに気をとらわれている限り、死ぬまで雅な心を得ることはできない。

 もうひとつは、NHKの「100分de名著 伊勢物語」のテキストに作家の高樹のぶ子氏が書いた言葉。

 

「みやびの本質とは、解らないことは解らないものとして残しておく、という余裕ある態度のこと。全部を明らかにして身も蓋もないかたちにするのではなく、解らないものを『そういうものもあるだろう、あってもいいだろう』という態度で残しておくこと。がむしゃらにならないということは、言い換えれば、自分が解明できないことや叶わぬことに耐えること。それこそがみやび。現代人は、解らないことがあると不安になり、何でもすぐに解ろうとする。でも、解れば解るほどにさらに解らなくなっていく」

 我が意を得たり、である。近年気になることがあった。なにかわからないことがあると、さっとスマホを取り出し、すぐに答えを得ようとすること。

 たしかに、今は便利な世の中で、たいがいのことはインターネットに答えがある。でも、それによって失うものもたくさんあることに気づいていない。

 まず、考える力。考えるという行為そのものが面白いのに、それを放擲してしまっている。考えた末、答えを得たときの喜びと無縁の人生を自ら選択している。ネットですぐに答えを得ている人たちを見て、そんなに早く答えを得ようとしているとスカスカの人間になっちゃうぞと思っていたが、高樹のぶ子さんが的確に指摘してくれた。しかも、雅であることと関連づけて。

 ひるがえって、私なりに雅であることの定義を書いておきたい。

 雅であること、それは利害得失を越えて好きなことに没頭できること。ただし、ときに応じて利害得失も考えられること。どちらにもなれる臨機応変さ、柔軟さを備えていること。雅だけでは実社会は生きにくいし(だれかに迷惑をかけたり)、利害得失を考えるだけでは殺伐とした人生になってしまう。すべからくバランスである。

 そうすれば、安定した収入を得ながら、この世の花を愛でる心の余裕を持つことができると信じている。

(201117 第1038回)

 

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