音楽を食べて大きくなった
本サイトのリベラルアーツ・コンテンツ「Chinoma」の11番目のコラム「音楽を食べて大きくなった」の連載が始まった。
私・高久多美男のエッセイ的な音楽評で、本サイトではこの「多樂スパイス」「死ぬまでに読むべき300冊の本」「海の向こうのイケてる言葉(英語の格言)」「うーにゃん先生の心のマッサージ(ネコが説く禅の意味:更新終了)」「偉大な日本人列伝(更新終了)」に続く、6本目の連載である。
私は本(小説)と音楽を食べて大きくなったと思っている。比喩ではなく、ほんとうにそう思っているのだ。もし、いま親しんでいるそれらに出逢わなかったと想定すると、背筋がゾォーっとする。それくらい自分の人生で大きな比重を占めている。
周りの誰かに影響を受けたということはいっさいない。とにかく、自然に出逢い、自然に好きになった。そういう意味では、今月の「100分de名著」に選ばれているブルデューの『ディスタンクシオン』の論旨に対しては半信半疑である。自分が育った環境と趣味嗜好には関連性があるというものだが、そういう傾向が強いとは認めつつも、必ずしもそうではないと自分の例をひいて反論できる。確証はないが、血がつながる数世代前のだれかの感性や行動様式が遺伝子的に影響していると考えている。なぜなら、自分の深い内部にそういう影響力を感じることがあるからだ。ただの気のせいかもしれないが……。
本題に戻らねば。
私がどういう音楽に惹かれて、どういう遍歴をたどったかは、本コラムや拙著『多樂スパイス』『葉っぱは見えるが、根っこは見えない』などに詳しく書いている。
その音楽を好きになれるかどうかの基準は、一点だけ。「友だちになれるかどうか」。あとは問わない。どんなに世間の評価が高くても、相性が合わないものはちょっと聴いただけでパスする。ただし、最初のうち好きになれなくても、やがて友だちになれるかもしれないという予感が働いたときはその例にあらず。これって、人間同士にもあてはまる。はじめは嫌な印象だったが、その人の何かが妙にひっかかるというようなもの。顕微鏡で見なければわからないような微細な〝なにか〟を発する人。結果的にそういう人と長いつきあいをしているという例がいくつかある。
そういった基準で選んでいるのだから、より好きになるのは当たり前。飽きもせず数千回も聴いている曲がいくつもある。ふと、私は30年くらい着ているジャケットやシャツやセーターがいくつもあるが、好きになると長年つきあう傾向があるのかもしれない。
ともかく、音楽のコラムが始まった。月に3回ていど、クラシックを中心に、ロック、ポップス、ジャズ、リズム&ブルース、ワールド・ミュージックなどをランダムにピックアップしてみようと思う。ごく稀に日本人アーティストも登場するが、いわゆるJポップは皆無。私は日本の美術や文学は大好きだが、音楽はあまり感じないのだ。特に最近のJポップは合わない。コンピュータで作った曲が多すぎて……。ま、いいか、そんなことは。
第1回目はバッハの『平均律クラヴィーア曲集』。
https://www.compass-point.jp/music/
(201219 第1046回)
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