問題多き中高年
昔から、社会のなかで問題を起こすのは若者と相場が決まっていた。ところが、いつ頃からか、高齢男性、とりわけ団塊の世代の無作法ぶりが目立つようになった。クレーマーの大半がその世代だという。若いころ、わけはわからないけどみんなと一緒に暴れてスカッとしたという体験をして「味をしめて」しまったのだろう。余談だが、あの全共闘運動はじつに愚劣で、ソ連共産党本部(コミンテルン)&日本共産党に操られていることに気づかない若者が大挙して暴れただけの事件だった。彼らは「アンポハンタイ」と叫び、当時の岸首相を糾弾したが、それまで、日本の基地を使うが日本を守る義務がなかった米軍に対して、日本を防衛する義務を負わせた画期的な条約改正だったことは知らなかったようだ。
ところで高齢男性の話だった。最近はぐっと年齢が下がり、40台後半の男性にまで感染してしまったという気がする。
今年の大学入試共通テストで、鼻出しマスクを注意されても従わず、不正行為とされた男の記事を読んで、またかぁと呆れた。年齢が49歳とあったのだ。
いい機会だから、この問題に乗じて自分の意見を述べたい。
「これが自分の正しいマスクの着用法だ」と主張するのはかまわない。それはそれで一理あるともいえる。しかし、そういう個人の主張が通じる社会とそうではない社会があることを忘れてはならない。どの社会を選ぶかは、個人の自由だ。それこそが「生き方」なのだから。
この世には数多の職業があるが、規則の多さで区分することができる。例えば、公務員を10、浮浪者(職業とは言えないが)を1としよう。狩猟を生業にするマタギは2あたりだろうか。
その男が大学入試共通テストを受けたということは、自ら「規則の多い」生き方を選択したともいえる。あるルールにのっとって点数を競い、高い点数をとらなければ合格しない。性格など、点数化できないものは問われない。大学卒を条件に人生設計を考えた時点で、多くの制約を受け入れなければならないはずだ。もちろん、若い世代であれば、とりあえず大学で学んでから、自由度の高い(その分、自己責任を問われる)生き方を選び、挑戦するということもアリだろう。しかし、その男がそういう長期ビジョンを持っていたとは思えないし、まして50歳近いわけだから、卒業後、生き方をがらりと変えることは難しいはずだ。結局、どういうふうに生きるかというテーマが首尾一貫していないから、こういう問題を引き起こす。
どうやら、その男は生き方がどうのこうのというより、なんとなく気分がムシャクシャしていて、ただ反抗したかっただけなのだろう。なんともお粗末な話である。
お粗末な話といえば、先日、こんなことがあった。
東京駅構内の書店で本を眺めていたら、レジの方から怒声が聞こえてきた。なにやら50歳前後とおぼしきサラリーマン風の男がレジの若い女性に向かって大きな声を張り上げている。1万円札を放り投げ、「声が小さいんだよ」などとしつこくののしっている。
私の眉間にピキピキとヘンなものが走った。つかつかと近寄り、「やめなさい、うるさいんだよ」と言った。男は怪訝そうな顔をして、「あんたにそんなことを言われる筋合いはない」と言う。
「公衆衛生上、問題なんだよ」
それから口論になった。
「カッコ悪いぞ」と言えば、「カッコ悪いのが俺なんだよ、どうせ俺は田舎もんだ」
「恥ずかしくないのか、恥を知れ」と言えば、「それが俺なんだよ」と大声で喚く。
そんなくだらない応酬が続いた。そのうち店長らしき人が出てきたが、のび太くんを一回り大きくしたような男でじつに頼りない。
「こういう奴から従業員を守るのが責任者だろ」と言っても、困惑した表情で薄笑いを浮かべるだけ。警察を呼ぶの呼ばないのとなり、少し強く出たら、くだんの男は「きょうは時間がないんで……」といきなり及び腰になった。
背中を丸め、去って行った男の後ろ姿を見て、そうとうストレスが溜まっているんだろうなと思った。とはいえ、無抵抗の人(まして若い女性)に怒鳴り散らしてストレスを発散していいということにはならない。
最近、そういう中高年が増えた気がする。若い人たちは、おおむね品行方正だ。いったい、どうしてそうなってしまったのだろうね。中高年男性のひとりである私にとって、ひとごとでは済まされない。
(210125 第1054回)
●知的好奇心の高い人のためのサイト「Chinoma」10コンテンツ配信中
本サイトの髙久の連載記事
髙久の著作