私の師匠は
最近、「私の師匠は田口佳史先生と植物です」と思わず本音を漏らしてしまったことがあるのだが、その時、周りにいた人たちに失笑をかってしまった。
おそらく、私が冗談で言っているのだと思っていたのだろう。
ところがどっこい、本気なのである。
このところ植物の力に関しては興味が尽きることなく、植物の能力に関する本をかなり読んでいる。エッセイ的なもの、スピリチュアルなもの、科学的に分析されたものなど、いつものようにいろいろなものをあたりかまわず胃袋に放り込んでしまうという方法で摂取している。
結果、植物の力を少しずつ知るにつれ、この方たちは「師匠」だという思いに至ったのである。植物は他の動物とちがって、移動できない。だからこそ、生存のためのさまざまな知恵が内蔵されている。ある意味、「移動できない」という運命を受け容れ、その条件の中で最大限の創意工夫をしながら生をまっとうするなんて、ナンピトたりとも真似のできるものではない。それだけでエライのである。
例えば、背丈を伸ばすための仕組み。言うまでもなく、背丈を伸ばすということは周りの障害物を避けて、少しでも多くの太陽光を浴びようという目的のためである。脳や目や耳を持たない植物が、どのようにしてそのようなことを実行に移すのか? これは相当スペクタクルな話である。さまざまな遺伝子のスイッチをオンにしたりオフにしながら適宜対応している。もちろん、私たちの体もそれ相応に精巧な働きがなされているのだが、私たちは「知識」というものをもっているだけに、本来備わっている力を発揮しにくいのだと思う。まして、最近は便利になるばかり。ますます感覚は鈍くなる一方である。
例えば、カーナビ。私もそれをありがたく使っている身なので、あまりひどいことはいえないが、あれを使うことによって、本来備わっていたものを失っていることは明らかだ。
前置きが長くなってしまったが、明治神宮御苑には変な木がたくさんあるという話だった。
上の写真、根本が魚のヒレのようになっている。なぜ、そうなったのだろう。そうならなければいけない何かの事情があったのだろうか。
もちろん、わからない。ただ、眺めてため息をつくのみである。
(110512 第250回 写真は明治神宮御苑の変人ならぬ変木)