『資本論』はだれも実践できない(4)
資本家はすべて悪か?
現行の労働基準法は、マルクスの思想をベースにつくられていると思える。工場の生産ラインなど、だれがやってもあまり変わりがない職種であればマルクスの主張もあてはまるが、費やした時間と労働の価値が比例しない仕事はたくさんある。特に知的労働にはあてはまらない。雇用者に対してなんらかの制限をしなければいけないからそのようなルールがあるのだろうが、無数にある仕事を十把一絡げにした段階で、すでに現実との乖離が生じている。
マルクスは「資本家に搾取される労働者」という観点で資本主義の問題点を指摘しているが、マルクスの思想が社会に行き渡った現在、そうとばかり言い切れない事実もある。
私自身が体験したことだが、ある事業を引き継いだ際、そこに在籍していた二人の従業員を雇い入れた。しかし、一人が問題ある人間だった。意図的にサボタージュを続けたのだ。外出すると、どこでなにをしているのかわからない。仕事の成果はほとんど上がらなかった。何度か注意したが改善の兆候はまったく見られなかったため給与を下げたら、すぐ労働基準局に訴えられ、呼び出しを受けた。調査官によれば、一度に給与額を下げられる範囲が決まっており、今回の措置はそれを超えているという。
私は事情を説明した。思い当たるフシがあったのだろう。調査官は、〝合法的に〟そういう人を解雇する条件を教えてくれた。それでも3ヶ月分の給与を要した。くだんの人間は左翼活動に加わっていたと聞いたが、そうだったのだろう。
どのような思想に傾倒しようが自由だ。しかし、はたして彼のとった行動は正当化されるものだろうか。労働者は弱者だから、なにをしても許されるのだろうか。彼の行為が正しいとしたら、懸命に努力している他の社員はどうなのだろう。少なくとも、そんなことをすべての社員がやっていたら、間違いなく会社は破綻する。マルクスの思想に適っているかどうかわからないが、『資本論』はそういう〝反社会的〟な思想にも援用されているのだ。その事実を見逃してはいけない。
斎藤幸平氏は民営化の弊害についても言及している。たしかに民営化には弊害があるが、利点もある。公営企業と聞けば国鉄を連想するが、なにかといえばストライキを決行し、ついには国家予算ほどの巨額の累積赤字を積み重ねて破綻した。ほとんどの国民はわかっていないが、われわれはいまだに税金によって国鉄の尻拭いを続けているのだ。それに比べて、民営化されたJRは私鉄との競争原理などが働き経営は大幅に改善し、国庫に納税さえしている。そう考えれば、国鉄が民営化されたことは悪かったと言う人はいないだろう。斎藤氏は、全国の図書館で非常勤職員が増えている事実をあげているが、それが事実だとしても、そのことによって「公共財にアクセスできなくなる」という危惧は、論理の飛躍であろう。まるで民営化には百害あって一利なしのごとき言い分だ。
さらに極めつけは、次の文章だ。
「へとへとになるまでつまらない仕事をして、帰宅してからは、狭いアパートで、コンビニの美味くもないご飯をアルコールで流し込みながら、YouTubeやTwitterを見る生活はおかしんじゃないか」
これは明らかに個人の資質の問題であり、資本主義のせいにするのはあまりに見当違いだ。収入の多寡にかかわらず文化的な暮らしをする人もいれば、その時限りの楽しみを追いかけている人もいるというだけの話だ。これでは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の喩えそのままではないか。
左翼にしろ右翼にしろ、バランスを失った人間はこのような物言いをする。(次回に続く)
(210317 第1065回 写真は「朝日新聞縮刷版1973年3月版/朝日新聞社」より引用)
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