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紺碧の将

とめる、ほめる、さする

2021.04.12

 山折哲雄の『無常の風に吹かれて』を再読している。細切れに書いたエッセイをまとめたものだ。

 バランスをとろうとして自然に手が伸びたのだろう。山折さんの考えには共感するところも多いが、そうじゃないところも多々ある。なにしろ、山折さんは大の演歌好きで、ロックを喧騒と言ってはばからない。そもそも山折さんは宗教学者である。私は自分なりに信仰心をもっていると思うが、宗教心はほとんどない。雑学の意味で仏教などもかじったが、現代に伝わる宗教は、仏教のみならずすべての宗教は遠ざかる一方だ。なんというのか、作為を感じて仕方がないのだ。とはいえ、時には考えの異なる人の意見にも耳を傾ける必要がある。そう思って読んでいるフシもある。

 それはそれでいい。本書のなかに、山折さんがある医師から聞いた話があった。その医師は、たくさんの患者を看取ってきたらしいが、その体験から3つの心得を自分に課すようになったという。

 すなわち、「とめる、ほめる、さする」である。まず、痛みを止める。次に患者のいいところを褒める。そして、体をさする。この3つをすることによって、患者の心が穏やかになり、死を受け入れられるようになるというのだ。

 それを読んで思った。そのことは死を目前にした人に限らず、万人に有効な方法であろうと。

 健常者であれば痛みをとる必要はないが、仮に心の痛みがあるとしたら、それを取り除くべく心を砕く。そして、その人のいいところを見つけ、声に出して褒める。そしてスキンシップをする。

 ところが、いまはコロナの影響もあり、人と人とが接することが悪いこととされる。だからなのか、他のさまざまな方法でつながろうとするが、上辺はつながっていても、心と心はなかなかつながらない。変に接近しようものなら、セクハラだパワハラだモラハラとうるさく言われる。その結果、多くの人が孤独感を味わっているのだから、もはや自業自得と言う以外にない。

 なにかと言えば、セクハラだパワハラだモラハラとなってしまったのは、理性のなせるわざだろう。行き過ぎた振り子を中庸に戻すためには、どうすればいいのだろう。ますますわからなくなっていく。

(210412 第1071回)

 

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