異なる人生の疑似体験
今年はコロナ禍の影響もあってか、昨年の1.5倍のペースで本を読み続けている。ただし、読書の傾向は大きく変わった。いろいろなジャンルの本を並行して読むというスタイルは変わらないのだが、自然に触手が伸びるのは小説や詩歌など文学ものばかり。あとは歴史関係と芸術関連の本が少し。その他のジャンルの本はなかなか手に取らなくなってしまった。興味のないものを無理やり読むのはやめようと思ったら、おのずとそういう読書傾向になったのだ。
もともと子供の頃から小説が好きだったが、年齢を積み重ねて読書力がついたおかげか、以前はわからなかったことがわかるようになってきた。たとえば、昔は巻末の解説文を読んで、「ひとつの本から、こんなことまで読み取れるのか」と感心したが、いまは、「なるほど。でも、自分はこう解釈する」と思えるようになった。
そして、小説にこそ人間の真理が描かれていることに気づかされた。もちろん、ひとくちに小説といっても玉石混交だから、きちんと選ばなければならないのは言うまでもないが。
執行草舟氏が『本源へ』でこう書いている。
――私は文学こそが人間の「教養」の中心を占めてきたという歴史的な認識の上に立っているのです。「文学を失えば、その民族は滅びる」と思っています。文学は、民族の本源の「記憶」につながっているものであり、本源の記憶を呼び起こす力を持ったものです。――
同感である。
自分の人生はひとつしかないが、すぐれた小説を読めば、いくつもの人生を疑似体験できる。こういうとき、自分ならどう決断するだろうか。なるほど、ここでこうなったから、この人はこういう道を歩み始めたのかなどと考えめぐらしながら読むのは興味深いことだし、ただ単純に、こういう生き方って素敵だなあとか、この時代のこの国ではこんなことが行われていたんだと疑似体験をしながら喜怒哀楽を味わうこともできるのはじつに豊穣な時間である。
言い換えれば、思想や哲学、宗教は人間存在の本質に対してビッグデータ的なアプローチを図るものであり、文学はあくまでも個別の事例によるアプローチといっていい。しかし、それらが積み重なれば、ビッグデータには及びもつかない真理への道が開かれると言えるのではないか。
しかし、社会のなかで文学の占める割合は年々低くなっていると感じる。現に、私の周りには本好きの人が多いが、日常的に文学(特に小説)に親しんでいる人は15人くらいだ。ただし、それぞれの顔を思い浮かべると、独特の深みがあることに気づく。ときどき文学談義をするときの表情が私の脳裏に刻まれているからかもしれないが……。
かくして、本サイトの連載コラム「死ぬまでに読むべき300冊の本」では、2回に1回の割合で小説を紹介している。
(210614 第1080回)
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