We don’t stop playing because we grow old; we grow old because we stop playing.
本コラムに何度も登場したバーナード・ショーは、文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリストなど、いくつもの顔を持つ。
曰く、年をとったから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから年をとるのだ。
遊び心があるかないかと言っているのだろう。この場合の「遊び心」は定義が難しいが、私は「無我夢中になる境地」と解釈している。
どんなものでも〝慣れ〟によって当初の新酸味が失われる。人も物も事もそうだ。しかし、新鮮さと引き換えにさらなる目標を見出すことができる。そこに行き着くためにはそれなりの時間と鍛錬が要るが、どうしてもそこにたどり着きたいという境地。
例えば、習い事がそうだろう。経験がないことをするのは、それだけで新鮮だ。ところが、ある程度慣れてくると、最初のつまづきに直面する。はじめの新鮮さは雲散霧消し、未熟さゆえの壁が不快になるのだ。
そのときが分水嶺なのだろう。最初の壁を乗り越えようとするのか、あきらめて新たな関心事を探すのか。
「遊ばなくなる」とは、新たな関心事さえ見出そうとしないこと。惰性に流されるということ。1年を振り返って、何も変わっていないということ。未知の世界や新たな出会いが億劫になること。
萎れていくとはそういうことを言うのだろう。
(第135回 250105)
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