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紺碧の将

あるときは慈悲深く、あるときは無慈悲な海を漂う

file.053『処女航海』ハービー・ハンコック

 火照った心を鎮めたいと思ったとき、このアルバムを聴いていた時期があった。冒頭「処女航海(Maiden Voyage)」のハービー・ハンコックのイントロを聴いただけで、別世界へ誘われるような感懐を覚えた。ジャーン、ジャッジャッと、シンプルなコードを鳴らすだけの、なんてことのない音なのに、信じられないような磁力がある。エッフェル塔を見て自分がパリにいると実感するように、一瞬のうちに空間移動させられたのである。

 ハービー・ハンコックの最高傑作といえば、この作品をあげる人も多いだろう。かくいう私もその一人。ハービーは電子工学の博士号を取っているほどで、ある時期から電子音楽系に移行したが、やはりこの時期の作品がもっとも輝いている。

作品のテーマは海である。海は凪のときもあれば、嵐のときもある。地球に棲む生き物にはかりしれない恵みを与えてくれる一方、情け容赦なく牙をむき出すこともある。そんな海をテーマに、ハービーは、時間の流れに摩耗しない傑作を世に出した。彼を支えたのはフレディ・ハバード(tp)やジョージ・コールマン(ts)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)の4人。発表されたのは、1965年。

 このアルバムは、モダン・ジャズ史においては、新主流派と位置づけられている。なにに対して「新」なのかといえば、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンの主流派に対してである。もちろん、両者はまったく異なっているわけではない。印象派と後期印象派のちがいほどといえばわかりやすいだろうか。その証拠に、ロン・カーターやトニー・ウィリアムスらマイルスの「黄金クィンテット」(コルトレーンやレッド・ガーランドが脱退した後の第2期クインテット)のメンバーが名を連ねている。

 このアルバムを不朽の名盤たらしめているのは、フレディの存在だろう。ハービーのピアノは、よく言えば知的でクール。悪く言えば、パッションに欠ける。そういうテイストを引き立てる役割として、フレディは適役だ。

 音が鋭く、聴き手の耳にスーッと切り込んでくる。かといって、抵抗は感じない。すんなり受け入れることができる。2曲目の「ジ・アイ・オブ・ザ・ハリケーン(The Eye Of The Hurricane)」は文字通り〝台風の目〟だが、荒れ狂う海の様子をツボを押さえた音で表現している。この〝獰猛な〟音がなければ、ハービーの知的な音が死んでしまう。 

 思えば、このことは、人間そのものにも当てはまるのではないか。知性と情熱は、理と情と言い換えてもいい。どちらか一方に偏っていては、せっかくの才能(能力)を活かすことができない。

 4曲目の「サヴァイヴァル・オブ・ザ・フィッテスト(Survival of the Fittest)」。適者生存とでも訳せよう。この曲で聞かれるハバードのトランペットも秀逸だ。むしろ、リーダーはハバードに移っているかのようだ。

 最後の曲「ドルフィン・ダンス(Dolphin Dance)」は、もはやスタンダード・ナンバーといっていい。イルカが海を舞台に、優雅なダンスを繰り広げる様子が目に浮かぶようだ。ハービーの作曲能力に感心する。

 

 話は変わるが、1977年から92年にかけて毎年夏に催されていた野外音楽フェスティバル「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」に通っていた。広い会場に数万人が集まり、お昼頃から夜の9時までぶっ通しで演奏する。あちこちにマリファナの臭いが漂い、目をとろんとさせながら乳房を露出する若い女性の姿もあった。

 そこでハービー・ハンコックのV.S.O.P.クインテットを聴いたことがある。感想は? と問われると困る。まったく記憶に残っていないのだ。名演との誉れ高いが、その頃は『処女航海』のみずみずしさが失われていたのかもしれない。少なくとも、私の心は揺さぶられなかった。その後、電子音楽に移行したハービーのアルバムは1枚だけ買ったきりだが、それきり興味を失った。一人の音楽家の旬は、案外短いものである。

 

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