アイデアが泉のように湧き出ている作品群
モーツァルトにはオペラやピアノ協奏曲など、魅力的な作品が目白押しのジャンルがあるが、私にとってヴァイオリン・ソナタもそのひとつ。モーツァルトに惹き込まれたきっかけはこのジャンルだった。
さほど長くない曲にアイデアが満載なのだ。シューベルト(だったかな?)は、「モーツァルトのヴァイオリン・ソナタはもったいない」と言っていたそうだ。なにがもったいないのかと言えば、わずか数十秒しか演奏されないアイデアを膨らませれば、交響曲が書けるではないか、ということ。
じつは、これがモーツァルトのすごいところで、彼はまったくといっていいほど出し惜しみをしない作曲家だった。せっかくこんな素敵なメロディーを思いついたのだから、これをもっと膨らませて大作にしようなどという考えは微塵もなかった。彼の頭にはアイデアが湯水のように湧いてくるのだから、惜しむ必要はなかったからだ。
とはいえ、このジャンルの初期の作品は構成もメロディーも稚拙で、繰り返し聴きたいとは思えない。やはりこのジャンルの主役は、円熟期に書かれた24番以降の作品ということになる。
と、ここでひとつ確認しておく必要がある。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの通し番号は規定が曖昧で、統一性がないということ。偽作と判明されている作品にも通し番号がふられているし、37番から39番は曲の断片でしかないということで、〝一人前〟扱いされていない。
正確を期すのであれば、ケッヘル番号と通し番号を併記することだろう。本稿でもそのルールに従って書いていきたい。
24〜43番のうち、31番は欠番(偽作?)となっていて、前述のように37番から39番は一人前の作品ではないということで、正味16曲が本稿の対象である。「モーツァルト ヴァイオリン・ソナタ全集」といったCDセットは、ほぼそのような構成になっているはずだ。
現代において、ヴァイオリン・ソナタはどちらかといえばヴァイオリンが主でピアノが従というイメージがあるが、モーツァルトの時代は「ヴァイオリン伴奏つきのピアノ・ソナタ」だった。しかし、ヴァイオリンのパートが貧弱かといえばそうではなく、ヴァイオリニストにとってモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ群は手応えのある対象であることはまちがいない。その証拠に、稀代のヴァイオリニストがこのジャンルに挑んでいる。
私もさまざまなアーティストの作品を聴いた。生のコンサートで聴いたことも数しれず。そんななか、もっとも好きなのが、今をときめくアリーナ・イブラギモヴァ。彼女は初期の作品を含め、このジャンルの全曲録音に挑み、めでたく完成させている(CD10枚分)。
とにかく自由奔放なのだ。いったい、どのような指導を受けたのかと思うほど、自在に曲の解釈を試み、新しい表現に挑戦している。コンサートでも、少しくらいのミストーンには頓着することなく、のびのびと弾く。天国のモーツァルトが彼女の演奏を聴いて、「そうだよ、そんなふうに弾いてもらいないと思って書いたんだよ!」とはしゃいでいる様子が想像できるほど。
例によって、このジャンルも大半が長調の作品だ。短調は、わずかに第28番(K.304)ホ短調のみ。それにしても、どうしてモーツァルトの短調はこれほど美しいのか。ふだん明るいだけに、曲が始まった瞬間に涙が出てきそうなほど憂いに満ちている。
かといって、長調だから明るいだけというのではない。私がもっとも好きな第35番(K.379)ト長調はときどき短調に転調し、深い哀愁をにじませる。
では、その次に好きな曲は? と問われれば、回答は不可能である。なぜなら素晴らしい曲が多すぎて、何日かかっても決められそうにないからだ。
モーツァルトは、曲想の泉そのものだ。
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