人間の深奥に潜む狂気とは
発売されてから50年間、ずっと全米チャート・トップ200にランクインし続け、全世界で5.000万枚以上のセールスを記録したオバケアルバムだが、売れ続けていることが不思議である。なぜならポップな要素はほとんどないからだ。曲のほとんどが長く、コンセプト重視で、気軽に口ずさめるようなメロディーでもない。とはいえ、あらためて聴くと、なるほど魅力満載の作品だということがわかる。
なにより、コンセプト・メイキングが優れている。そして、そのコンセプトに沿った歌詞制作をロジャー・ウォーターズが手掛けたことによって、ピンク・フロイドの重心がはっきりした。
原題の「The Dark Side of the Moon」を直訳すれば「月の暗い部分」、もちろん暗喩である。人間誰もが自身の内面に持っている狂気が、その見えない部分だ。
「Brain Damage(ブレイン・ダメージ)」の歌詞がそれを端的に表している。「The lunatic is in the grass.」(狂気は野原にある)から「The lunatic is in the hall.」(狂気は家の玄関にいる)と近づいてきて、最後は「The lunatic is in my brain.」(狂気は私の頭のなかにいる)と展開する。人間の深奥に潜む狂気が、音もなく忍び寄ってくる様子はサスペンスもどきの効果がある。
ただし、このアルバムを買った5000万人の人たちがコンセプトを重視したわけではないだろう。やはり、サウンドが魅力的だと思って買っているはずだ。
独特のサウンドづくりに貢献したのが、効果音を巧みに操るアラン・パーソンズだ。彼はのちにアラン・パーソンズ・プロジェクトというバンドを立ち上げるが、いわゆるコンピュータを駆使したサウンドづくりの先駆者。ピンク・フロイドのメンバーとアラン・パーソンズは1972年5月から翌年初頭にかけてロンドンのアビーロード・スタジオにこもり、レコーディングを行った。
このアルバムには不気味な笑い声や爆発音、振り子時計のカチカチいう音、飛行機の飛ぶ音やレジスターにお金が入る音、心臓の鼓動などが随所に使われている。当時はアナログな手法で音を組み立てたそうで、「Money(マネー)」の冒頭にあるレジスターの音は編集に30日も要したという。
リズムも独特だ。「Money」のリズムはきわめて複雑な8分の7拍子。なのに、ギルモアのギターソロだけが4分の4拍子という変拍子を用いている。
直線的で冷たいサウンドが続くなか、全体を中和させる役割がデヴィッド・ギルモアのギターにある。彼のギターの音色は時にエモーショナルに響き、時に感情の襞を刺激してくる。ピンク・フロイドを離れたのち、彼だけが新境地を拓くことができたのは偶然ではないだろう。
このアルバムはピンク・フロイドの代名詞ともいえるが、筆者は『炎』と『アニマルズ』も贔屓にしている。聴く回数は、『狂気』よりも多い。
当時としては斬新だったコンピュータ・サウンドに違和感を覚えるからだろう。直線で描かれたプリズムと光線のジャケットは、今となってはあまりにベタだ。
先端を走っているものは、時代が変わって「回れ右」をすると、とたんに古臭くなる。これは古今東西、変わらぬ真理である。環境に適応しすぎたがゆえ環境の変化についていけず絶滅してしまった生き物たちの姿にも重なる。
とかなんとか言いながら、こんな大傑作はそうそう生まれるはずがないとも思っている。
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