人類が構築した交響曲の最頂点
いくらなんでもひどいよ、とずっと憤慨している。
ベートーヴェンの交響曲第5番、通称「運命」の冒頭、ダダダダーンのメロディが、さまざまな場面で効果音的に用いられ、陳腐化していることに。テレビ番組で、さあこれからなにかが始まるぞ、というシーンの前ぶれなんかに使われているのを見ると、番組プロデューサーを逮捕したくなる。これも、有名税のひとつなのだろうか。
人類が誕生して以来、交響曲は星の数ほど作曲されたが、頂点に位置するのはベートーヴェンの第5番か第9番「合唱付き」だと信じて疑わない。作曲技巧、構築性、緻密性、楽曲が聴く者にもたらす深淵な感興はほかに類例がない。推敲に推敲を重ねたうえで奇跡的に生まれた、非の打ち所のない交響曲だ。
ほとんど耳が聞こえない状態でこの作品を作ったということがいまだに信じられない。あるいは、耳が聞こえなかったからこそ、雑多な騒音から解放され、このように壮大で緻密な音世界を構築することができたのだろうか。モーツァルトの交響曲は、天上に浮かんでいる音楽をキャッチし、写譜したという印象だが、ベートーヴェンのそれは、まさに人間が持てる能力を十全に発揮して構築したといえるだろう。
「運命」という副題(愛称)は正式の名称ではなく、ベートーヴェンの弟子アントン・シントラーによって名づけられたというのが定説だ。シントラーが「冒頭の音は何を示すのか」と質問したのに対し、ベートーヴェンが「最初の2回の打撃音は、運命が扉を叩く音だ」と答えた。もっとも、シントラーはベートーヴェンの会話帳を改竄していたとも言われ、真偽のほどはわからない。
この曲はハ短調で作曲されているが、鍛え抜かれた強靭な構造ゆえか、長調のような響きがある。それを肯定的に表現できるかどうかが指揮者と演奏者の腕のみせどころだろう。
私が最も愛聴するのはオットー・クレンペラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団による1960年の録音だが、それに沿って簡単に曲を解説してみよう。
第1楽章、クレンペラーは〝運命の動機〟をはじめ、譜面に書かれた一音一音を確かめるように、存在感のある音で楽曲を構築していく。しかし、各楽器には必要以上に音量を上げることはさせていない。ハイライトでも感情のうねりにまかせるのではなく、冷静に制御している。理性と情動が平衡しているのだ。人間もそうだが、そういった平衡こそ得も言われぬ感動を呼び起こす。
第2楽章は宗教的な感懐を伴った緩徐章だ。第1楽章が堅牢で緻密な構造物の建設だとすれば、第2楽章はその最上階から美しい風景を眺めながら休息をとっているともいえる。白雲がゆっくりたなびき、小鳥がさえずる。自然が移ろい行くように、心もゆらゆらとたゆたっている。つかの間の平穏な状態だ。しかし、いつしか雲は黒みを帯び、やがて崩れていく。その様子をクレンペラーは情緒に溺れることなく、ていねいに描き、より強い意志へと転化させている。
第3楽章の冒頭、何者かがひたひたと近づいてくる予感。長調に転調し、低音の弦楽器群がリズミカルに繰り返し奏で、暗雲を吹き払う。この高揚感は何度聴いても色褪せることはない。
その後、一転して静寂に包まれる。そして静寂から一気に上昇し、間髪入れずに最終章へ入るつなぎは圧巻。
じつはこの最終楽章において、音楽史上初めての試みがなされている。それはピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンが加わったことだ。このことは速球一辺倒のピッチャーが多彩な変化球を操れるようになったのと同様、音楽性に厚みと豊かさをもたらすことになった。
壮大な音のうねりは、汲めども尽きぬ意思の奔流のよう。宇宙の律動のように、まったくムダがなく、エネルギーに満ちている。
コーダではさらに加速し「暗から明へ」というドラマチックな構成の最高点へといざなっていく。ベートーヴェンの交響曲はさりげなく終わることが多いが、第5番では執拗なほど幕切れを予感させ、繰り返し念を押し、フェルマータ(拍の進行を停止させ、最後の音をジャ――――ンと長引かせる)で終わる。
余談だが、この曲は1808年12月22日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場にて初演された。演奏会の記録には「暖房もない劇場で、少数の観客が寒さに耐えながら演奏を聴いていた」と書かれている。ありていに書けば、初演の反応は芳しくなかった。それが21世紀に至るも世界各地で演奏されている。当時の聴衆はもちろん、ベートーヴェンでさえ、予測だにしていなかったことだろう。
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